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松ノ木運動場のブログ 

松ノ木運動場が発信するブログです。 大会・教室の報告など・・・ お客様との交流を深める“広場”を目指します!

松ノ木物語ーその11 

松ノ木の隣に映画館があった

子供の頃(50年くらい前)、中央線に乗ると、窓からいくつのも映画館の看板を見ることができた。オデヲン座、松竹、東映、大映・・・・・・と並んでいた。
今、杉並区には映画館が無いと思っている人が多い。当時の映画館はすべて営業をやめてしまったが、1つだけ阿佐ヶ谷駅北口に映画館がある。
1998年に設立された「ラピュタ阿佐ヶ谷」である。「ラピュタ」というのは、宮崎駿のアニメ「天空のラピュタ」からとったもので、創設当初はアニメーション映画が中心だった。現在は、日本映画の名画座として知られている。

映画館ー1

地下1階は芝居小屋で、3階には「山猫軒」というフレンチレストランがあるので、このユニークな建物を知っている人も多いと思います。丸味のある土壁のビルの上に風車が風に吹かれて回っている。
2階の映画館で、50年ぶりに舟木一夫・本間千代子・堺正章たちの学生服姿を見ました。先生役は千葉真一でした。

映画館ー2

昭和30年代の映画黄金期には、杉並区には22ヶ所に映画館がありました。
高円寺には、平和劇場・映画劇場・東映・ムービー山小屋、阿佐ヶ谷には、オデヲン座・松竹・名画座・中央劇場、荻窪には、文化劇場・スター座・東宝・大映パルナス・松竹、西荻には、東映・セントラル・名画座・銀星座・シネマ西荻などが営業していました。誰もが歩いて映画館に行けた時代です。
松ノ木町の隣の梅里1丁目にも「杉並映画劇場」がありました。昭和21年に開館し、13年間営業して、昭和34年に閉館しました。五日市街道の入口付近にあったのですが、昭和37年に開通する地下鉄丸の内線・新高円寺の工事の影響で閉館し、跡地には変電所ができました。
杉並区の映画館は、都市部にある封切館とは違い、料金も安く、幕間になると、場内にせんべい・チョコ・キャラメルなどを売り歩く人が来ました。

40~50年前には、どんな小さな町にも映画館がありました。その復活に挑戦するように、「ラピュタ阿佐ヶ谷」の館長は、ホームページで次のように「ご挨拶」を始めています。
『映画館を作りたいと思った。街にちいさな映画館。ピータ・ボクダノビッチの「ラスト・ピクチャーショー」だったか、街で映画館がなくなる。そして、小さな文化の灯が消える。そんな科白があったような気がするが、日本の多くの街でもそのような現象があちこちで起こった。・・・・・・・・・』
お正月には「松ノ木運動場の2階に映画館が出来た」という初夢を見そうである。それが正夢になる日がくるかもしれません。

映画館ー3

ラピュター1

ラピュター2


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松ノ木物語ーその10 

『松ノ木に一番長く住んでいる家系』

松ノ木地区に現在住まわれている方々は、第2次世界大戦後に移ってこられた方が多いと思われますが、一番長く住まわれている家系は何年くらいになるのでしょうか・・・・・・・

杉並のあたりは、もともとは海でしたが、火山の噴火等で10メートルくらいの関東ローム層に覆われました。
松ノ木、和田堀周辺の歴史をみてみると、大宮八幡宮周辺台地の関東ローム層から石器が発見されているので、先土器時代(旧石器時代)には、既に人が住んでいたことが判ります。
松ノ木遺跡には100基以上の住居址があり、今から1万年程前の縄文時代にも人が住んでいたことが判ります。
また、松ノ木遺跡、旧大宮八幡境内の方形周溝墓などで、約2,200年前の弥生遺跡が発見されています。彼らは、善福寺川周辺で稲作を行い、お墓も作りました。
4世紀ころには集落が集団になり、古墳時代になります。古墳時代のお墓は見つかっていますが、住居址はまだ発見されていません。
各時代の人々は全く別の人種で、それぞれの時代にいわゆる流れ者が住んでいたような状況です。原住民が継続して定住していたということではないようです。
奈良時代には、武蔵野国の国府「府中」と下総国の国府「市川国府台」を結ぶ幹線道路である鎌倉街道が松ノ木の東西を通過しています。また、大宮八幡宮は鎌倉時代に創建されたと考えられています。

松ノ木1丁目2番の共同墓地に「牧野家」の墓があり、1279年銘の板碑があるそうです。しかし、この「牧野家」の子孫は、現在松ノ木には住まわれてはいないようです。
室町時代は、上杉家の領地になります。そして、戦国時代(1560年ころ)に上杉家が小田原の北条家に負け、松ノ木地区の年貢が北条家へ入るようになりました。

川中島の戦いが行われた頃、甲信越では武田家、北条家、今川家、長尾家が争い、その他にも信濃にはいくつものお城がありました。その一つが伊那の「松島家」です。
伊那の「松島家」は、1556年に武田家に滅ぼされました。城主は切腹したそうですが、乳呑児が小田原の北条家へ逃げ、更に北条家の息のかかった松ノ木に移ってきて、定住したそうです。
「松島家」では貴重な古文書が数多く保存されていて、その後の「松島家」と松ノ木の関係が判ります。
同じ時期に伊那から一緒に移り住んだ家系もあるようですが、現存する資料から、「松島家」は「現在まで松ノ木に住まわれている一番長い家系」の一つと言えそうです。年数でいうと、450年前からの歴史になります。

松島家ー1

松島家ー2

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松ノ木物語ーその8 

「大宮公園」

今、インターネットで「大宮公園」と検索すると、埼玉県さいたま市の県立大宮公園がでてきます。しかし、昭和の初めに検索したら、現在の和田堀公園にあった「大宮公園」がトップでリストされたはずです。
当時の大宮公園は、井の頭公園と双璧の「憩いの場」であると同時に、豊島園とも競合する「遊園地」でした。
その井の頭公園と豊島園は今でも人びとに親しまれていますが、大宮公園はその存在を知っている人が少なくなっています。

井の頭公園は武蔵野市と三鷹市にまたがる都立公園で、(有料の動物園はありますが)囲いのない池を中心にした公園です。桜の名所でもあり、西端の島に現存する弁財天は平安中期の起源と言われています。
昭和の初めころは、ボート場、25メートルの水泳場、水族館、動物園が開園されていました。

一方、豊島園(現在は、「としまえん」)は、練馬区にある西武グループが運営する囲いのある遊園地です。もともとは、個人(藤田氏)が大邸宅を構えるために購入した景勝地を開放して、大正15年に開園。
昭和の初めころは、ウォーターシュート、プール、ボート池、自然動物園などを営業していました。

今、大宮公園が現存していれば、たぶん井の頭公園のような道をたどってのではないかと想像されます。
善福寺川沿いの桜がきれいですが、もともとは、大正5年に大宮八幡宮付近に3000本の桜を植えています。現在はその一部として境内や公園内に数十本が残っていますが、昭和の初めころの「桜の名所・大宮公園」の姿は消え失せました。但し、現在は「都立和田堀公園の桜」として復旧する努力が行われています。
「桜の名所・大宮公園」のころの地図を見てみますと、豆汽車、豆自動車、木馬、射的場、映画ボックスなどが常設されています。そして、その横に、サル園、手漕ぎボート場があり、プールの中にウォーターシュートがあります。
現在のサッカー場のあたりがプールになっていて、そこに木製の櫓があり、ウォーターシュートになっていました。但し、これは現在ディズニーランドにあるようなアトラクション(絶叫マシーン)とは程遠いもので、櫓、滑走路、ボートなどの全ての遊具が木製であり、運行作業も人の手によるものでしたので、時間のかかる素朴な遊びでした。
このウォーターシュートも昭和13年ころ始まって、昭和19年には閉じています。

大宮公園の面影をわずかに残すものは、善福寺川沿いの桜と釣堀です。
現在は、遊歩道ができ、つつじが川べりを美しくしているので、新しい「憩いの場」として「和田堀公園」が人びとに愛されています。戦後、長く汚染されていた川も、今は清き流れとなり、鯉や水鳥の姿が見られ、散歩者たちの目を楽しませてくれます。

サッカー1

サッカー2

<現在のサッカー場 (昔、大宮公園のプールがあった場所)>





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